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2019年7月 4日 (木)

木更津紀行

毎年旅行に行っている川崎製油所での仕事仲間である布川勝さんと私山口明が昨年「木更津に住む岡崎隆さんに会いたいね」との話しが今年になって実現し、数十年のブランク埋めるように、飲んで語り合いました。平成の初めに川崎製油所の従業員の数名が木更津―浮島フェリーで通勤していましたが、その中の一人が岡崎隆さんです。今回は平成10年に開通した東京湾アクアラインで横浜から1時間弱で木更津に到着し、食事をして、岡崎隆さんの案内で下記の木更津を案内してもらい、木更津駅前の一杯飲み屋で大いに語り・飲みました。(もちろん、車は自宅において)以外なことに木更津は海に近いのに魚が旨くなく外房へ行かないとダメということまた全体に味付けが濃いとの事前情報を聞いていましたが、一杯飲み屋には“本日は刺身がない”との定員さんの言葉と“つまみ”の味付けが濃いことに納得しました。近いうちに横浜で夫婦での再会を約束して散会し、楽しい再会でした。

木更津は日本武尊の伝承されている古い場所で、江戸時代には東京湾の海上輸送を取り扱う流通拠点でした。近年には東京湾アクアラインが開通し、近くに三井アウトレットパーク木更津などがオープンし、テレビなどにも数多く紹介されています。

「高蔵の観音様」で親しまれている坂東30番札所の聖地の高蔵寺(こうぞうじ)を訪れました。うっそうとした樹木の中にたたずむ高床の本堂は古刹の貫禄をただよわせています。

用命天皇(在位585587年)の代、里人が発見した四寸ほどの観音像の堂宇が建立されました。郷の長官の娘が、観音さまにお祈りして、「藤原鎌足(614669年)」が生まれたとの伝承があります。藤原鎌足が、白雉庚戌年(650年)に建物を建立しました。残念ながらこれらの建物は火災に遭い、大永6年(1526年)に再建されたのが現在の本堂です。仁王門・鐘楼堂は江戸時代に再建されたと伝えられています。

▼高蔵寺の本堂と仁王門・鐘楼堂

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 また木更津には歌舞伎「与話情浮名横櫛」に纏わる旧跡が数多くあり、木更津駅西口を出てすぐの光明寺(こうみょうじ)に、主人公・与三郎のお墓があります。与三郎のモデル(木更津で修業)をしていた人物の墓で供養墓(実際の与三郎の墓ではありません)です。さらに光明寺の裏手に在る選擇寺(せんちゃくじ)には、与三郎の相棒・こうもり安の墓があります。実在の人物で、劇中のこうもり安とは違い、男っぷりもよく揺すりやたかりをする様な人ではなかったようです。また木更津港の鳥居崎海浜公園に与三郎とお富が初めて出会った場所「見染めの松」があります。

 今回、光明寺にある与三郎の墓を訪れました。墓の脇には、歌舞伎の片岡仁左衛門と坂東玉三郎が立てた追善の塔婆があります。かつては「与話情浮名横櫛」を演ずる際には必ず参詣に来ていたようです。

▼光明寺の与三郎の墓

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註:『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)とは、歌舞伎の演目のひとつです。江戸の大店の若旦那の与三郎は身を持ち崩し、木更津の親類に預けられた。木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう。ところがお富は、地元の親分の妾だった。その情事は露見し与三郎はめった斬りにされる。いっぽうお富は入水するが、商家の大番頭に助けられる。与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり悪名を馳せ、お富はその大番頭の妾となっていた。

或る日、与三郎はごろつき仲間のこうもり安と揺すりに、訪れた女は三年前に別れたお富であった。お富を忘れられない与三郎は、また誰かの妾になったと思うとなんとも肚が収まらない(ここで恨みと恋路を並べ立てる「イヤサ!!お富、ひさしぶりだなァ…」の名科白がある。また春日八郎の歌う歌謡曲では「死んだはずだよお富さん…」という歌詞が有名です。)

文責:山口明

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